軸の俳句

秋 尾  敏 評

<「碧耀集」という軸の雑詠欄の上位句を、秋尾主宰が評しています。>

平成27年12月

秋日傘なんにもしない掌の汚れ      山﨑 政江
 日傘とは身を守るもの。紫外線から逃れようとしただけであとは何もしなかったのに、私の掌はよごれている、と作者。なんと暗示的な句であろうか。日常の一端を切り取っただけの句でありながら、老境の身の置きどころを言い、さらにそれが世代を超えた生き方論につながっていく。いじめ問題や専守防衛論まで考えてしまった私の頭は、いささか川柳的な解釈に暴走しているかもしれないが、しかしこの句の暗示性はかなりのものである。

リンゴ置く最終章の譜の上に       清野 敦史
 この「譜」を楽譜と読む人が多いだろうが、系譜、年譜などもある。とすれば、人の生き様の見えてくる句である。「譜」は成行きの人生を送る人が使う文字ではない。自らのアイデンティティーを認識し、計画し、実行し、記録して生きてきた人が、老後の人生に置いたリンゴというものを考えてみなければならない。こちらもただの快楽ではないだろう。天国を追われることをも覚悟した究極の悦楽に違いないのである。

祈(ね)ぎ事に人魚の財布十三夜     諸藤留美子
 不完全な故に愛でられる十三夜の月。十月下旬の夜はすでに肌寒く、そこに上がる多少いびつな月をあえて無双と称えた宇多法皇という人の風流心は、かなり荒涼としている。何しろ藤原北家を相手取った人である。十三夜を愛でる心というのは、実は血みどろの現実をくぐり抜け、地獄を見た人の風雅なのだと私は信じている。
 そんな十三夜に、この作者は人魚の財布を願うという。ふつう人魚の財布と言えばサメ類の卵鞘(らんしょう)(卵を守るケース)のことだが、作者の願うのは、どうやら本物の人魚で作った財布なのではなかろうか。それこそがいびつな名月にふさわしい。

秋祭別れる橋と逢う橋と         市川 唯子
 青春の思い出が蘇る。去年私の隣にいた子が、今年はほかの誰かといる。それが祭というものだ。

秋陰の光の罠のジャズピアノ       松澤 伸佳
 聴覚を視覚に変えてとらえている。これも一つの手法。

華やげる泡立草の磁気嵐        木之下みゆき
 生命力のほとばしるエネルギーを言いたいのであろう。

無花果を吸い束の間の宇宙観       鈴木 郁子
 たしかに味は世界観を変える。吸うという動作もまた。

雁渡し釦は丁寧にかけよ        赤羽根めぐみ
 登場人物は二人。一方が「寒い」とつぶやく。

ほんとうは淋しい時間カンナの緋     河口 俊江
 「時間」が新しい。季語が効いている。

秋霖の真意に触れぬ置き手紙       安田 政子
 上五で切って読むのだが、そんな手紙を置いていったのはやっぱり秋霖のような人。

折れました一本きりの曼珠沙華      稲垣 恵子
 それだけのこと。それ以上読んではいけないと思いつつ、どんな心が折れたの?と考えてしまう。

西方の火種となりぬ彼岸花        室谷 光子
 あの世に滑稽を仕掛けるのも一つの挑戦。

弾奏の昂ぶり未知の火星にも       野口 京子
 ギターであろうか。その熱演のような昂ぶりが火星にもあると。むろんそれは作者の昂ぶりである。

胸襟を披(ひら)き一気に金木犀    ひねのひかる
 心の中を語ってみたら、金木犀の香が体に入ってきた。

病室に爪の健やか夜の長し        関谷ひろ子
 爪は元気そうに伸びていて、ひとまずは安心。

戦しか知らない子らの木の実独楽     富澤ムツ子
 過去のことではない。今の世の話である。

耳遠きされど詠みつぐ風晩秋       竹内 静子
 九十一歳になる作者のこの深い思いと新鮮な感覚!

かりまくら一羽の鴨を寝覚むまで    末広 陽惠
 「仮枕」は旅寝。

木の実独楽埴輪の頭廻り出す      小杉百合子
 回り出したのは埴輪の頭の中であろう。

 平成27年11月

月明の落花鱗粉秘すことも        諸藤留美子
 普通に読めば春の句である。春月の下での桜の落花と読むのが俳句の常識で、「鱗粉」もまた蝶であろうから春の季感である。作者がうっかりしたのか意図的であったのかは分からないが、「鱗粉秘すことも」はかなり面白い。無理をすれば「落花」を、月光の暗喩と読むこともできる。「月の雫」という言葉もある。
 実は「月花」という季題がかなり難物で、数年前から連句の師匠の丹下博之先生のご指示で調べているのだが、暗礁に乗り上げている。集英社の「古典俳文学大系」から「月花」の句を探し、三百句以上見つけたのだが、どうにもその本質や使い方のルールが分からない。「崑山集」に「春の夜の月花みるや諸(もろ)果報」というのがあって、これは春に見た実際の月と花である。しかし芭蕉の「月花の愚に針たてん寒の入」は冬の句で、「月花」を風雅という意味に使っているように思われる。とりあえずはその姓が一文字詠み込まれた「諸果報」の句を作者に贈ってお茶を濁すことにしよう。

草稿に乗れば未来派榠樝の実       山﨑 政江
 榠樝の実を原稿の上に置いてみたら、前衛的な形をしていて、これからの世界を描き上げるような力を感じたというようなことであろう。「乗れば」に勢いがあって「未来派」とよく響き合っている。ただし、美術史における未来派は近代主義に徹し、戦争も肯定してファシズムにも利用された一派であるから少々恐ろしい。

木を植えて胡桃のままの尊厳死      市川 唯子
 「胡桃」は自分自身であろう。人間の行為と内面。そう簡単に整合性はとれぬ。

名乗ることせぬ一日を花薄        平林 啓子
 たしかにそういう一日があった方が良い。「花薄」は自らのアイデンティティを語らぬものの象徴。

望郷の弦の唸りを秋の浜         小林 俊子
 波音のことを言っているのであろうが、イメージの広がりが深い。「弦」が効いている。

羅やくの字の歩み背のみやび       堺  房男
 かなりお年を召した方が、美しい着こなしで歩いていたのであろう。作者は九十一歳。
雲秋意風を斜めに読んでいる       西﨑 久男
本歌取りである。「雲秋意琴を売らんと横抱きに」は、凱夫の師、中島斌雄の代表句。「横」から「斜め」を生んでいる。

考える力をもらう星月夜         和井田なを
「考える時間」と言いそうなところだが、「力」とまで言って、切実さが伝わる句となった。

ハンカチーフに潮騒包む夢いくつ     鈴木 郁子
 中七で切って読みたい。生きることに前向きなロマンである。

八月の祈りは石のこちら側        清野 敦史
 読み手も「石」を墓石と断定してしまわない方が良いだろう。この「石」にはもっとさまざまな含みがある。

聞く度に変わる生い立ち秋の蝶      富澤ムツ子
大変な人と知り合ってしまったものだと思ったが、老衰ゆえのことなのかもしれない。

鶏頭にもう一匙の添加物         小池美佐子
 「もう一匙」というからには、既に添加物があるらしい。

心してアルトを辿る霧の夜        岡田 治子
 合唱でアルトのパートを受け持っているのである。

一日の眼鏡を外す夜の秋         倉岡 けい
 「一日の眼鏡」という省略形がすばらしい。
生きるためペンと向き合う秋深む     小島 裕子
 作者は九十歳だが若々しい句である。「向き合う」「深む」という終止形の連続も若々しい。

ブロンドの案山子に海の過去ひとつ    栗山 和子
 案山子の句でこれほど洒落た句を見たことがない。

歩き出す一歩が秋の誕生日        志村 敏子
 ちょうど一歳の誕生日に歩き始めたのである。

平成27年10月

緑の骨組となる父の椅子        山﨑 政江
 遺された椅子の存在感を言っている。作者の世界観の骨組がそこにあるというのである。「万緑」とは、一つの出来上がった世界であろう。豊かに出来上がったこの世界の骨組みは、受け継がれたものだと作者は感じている。
 表層で言っているのは、父親の遺した無骨で古風な椅子が、この万緑世界の骨組みであるかのように、大きな存在感を放っているということだ。
 そしてその深層にあるのは、現在見えるこの世界像全体が、受け継がれたものだという認識である。
 作者は絶対的に個人的な感覚を詠っている。けれどその真実は、私にも当てはまり、あなたにも当てはまる。それが文学というものだ。

影でなら重なり合える秋の川       平林 啓子
 むろん恋の句。抑制されてはいるが、熱情的な恋情をレトリカルに言いなした。「秋の川」の醒め具合が、その熱情とバランスを取り合っていて、俳句表現のおもしろさを説明できるほどに優れた表現となった。

ひまわりと見つめあっては負けている   渡辺 礼子
 「ては」に何度も繰り返す感覚があって、そこがおもしろい。今度こそ、今度こそ私の情熱の方が強いと挑むのだが、どうも勝負は初めから明らかなようだ。〈自虐〉はこの作家の得意とする手法だが、なかなか真実味のある句となった。

雲は母百戸の谿の涼しさに        西﨑 久男
『百戸の谿』は飯田龍太の処女句集。昭和二九年に刊行され、五一年になって『定本百戸の谿』が出ている。凱夫が龍太を褒めるのをあまり聞いたことがない。私が蛇笏の方が好きだと言ったときも満足そうであった。「雲母」廃刊に際しては激怒していた。当時俳壇の寵児であった龍太に対する現俳からの思いというものがあったように思う。
走りだす猛暑のゆがみ森白く       堺  房男
 自分が走り出したのではなく、あまりの暑さの到来を言っているのだと思う。全速力で走っているような暑さが来て、世界は歪み、すべてが白く見えてくる。そんな感覚であろう。身体感覚を、理性を通さずそのまま言葉にしたような句。現代俳句のひとつのやり方であるが、卒寿となった作者ゆえに成功することかも知れない。

別のふるさと百日紅が待つ擬音      市川 唯子
 「別のふるさと」「擬音」ともに抽象的なので、具体的なイメージの伝達を期待しても何も分からない。そういう句に対しては、読者は言葉を手がかりに、イメージを自分で作り上げるしかない。生まれ故郷とは別の「ふるさと」を持つ人は多かろう。百日紅の擬音から私は戦争や戦後をイメージするが、愛というテーマに行く人もいるだろう。それぞれでよい。テーマというものから遁走するのはポストモダンのやり方の一つ。

夜の厚み青梨の実を手のひらに      沢木  京
 
この句は現代俳句である。ポストモダンではない。近代俳句のリアリズムの実感を、言葉の領域に持ち込んで、レトリカルに強調するのが現代俳句のひとつのやり方。「夜の厚み」というイメージによって、梨の実の重さという実感を伝えようとしている。ただ、「実」と言う必要があったかどうか。別のものに置き換えもできる。

こだわっている夏雲を木に吊す      鈴木 郁子
 この句は典型的な現代俳句。動こうとしない入道雲をどう言うかというテーマ。巧みな句だ。完成されている。

がちゃがちゃや闇の笑窪の中に寝て    倉岡 けい
「寝て」とあるので、「闇の笑窪」にいるのはどうやら作者らしい。それが虫であった方がおもしろかったかもしれないが、「闇の笑窪」はすごい表現だ。

追い風になりたい蜻蛉水たたく      笈沼 早苗
「風になりたい」という句は多いが「追い風」としたのがすばらしい。たった一語で表現力ががらりと変わる。

平成27年9月

逆転の序曲氷雨の管楽器         西﨑 久男
 高校野球であろうか。しかしそこには人生の縮図がある。一声の応援が人を鼓舞し、大いなる逆転を生み出す。それは決してスポーツや文学の世界だけの話ではない。
 応援する方だって、決して楽ではないのだ。余裕があるから応援するとは限らない。応援する相手に、自分の人生を賭けていることだってある。この人がうまくいけば、きっと私にも可能性が開けるに違いない。そんな切実な思いで、人は誰かを応援する。
 炎暑のグランドがにわかにかき曇り、雹が降り出す。競技は中断となり、選手はダッグアウトに駆け込む。
 しかし、応援のブラスバンドは演奏を続けている。ここで止めてなるものかと指揮者は腕を振り続け、雹に打たれながら、管楽器は轟音を出し続ける。選手は呆然とスタンドを見上げるばかりだ。
 これは何かがおこる、いや、何かがおこるべきだと、誰もが感じた瞬間をこの句は捉えている。「序曲」は楽曲であると同時に、人生の新たな展開の始まりの比喩。巧みな句だ。この一句からドラマのシナリオが書ける。

毒のない毒舌海の日のテレビ       山﨑 政江
 最近のテレビにはがっかりさせられることが多い。底が浅いとか、底が割れるという慣用句ばかりが頭をよぎる。「海の日」は、明治天皇東北巡幸の横浜帰港日に因む。海に感謝し、海洋国日本の繁栄を願うという趣旨で、レジャーの日というわけではない。しかも、沖縄忌と敗戦忌の間にあって、この時期の「海」には、いささか複雑な感情があるはずなのだが、それを掬い上げる番組も少ない。おまけに出演者たちは空気を読むことが最優先で、異端はすべて排除されてしまう。もう少し深みを、もう少し真実を、と作者の心は飢えるばかりだ。

口中に鮎の泪がほろ苦い        木之下みゆき
 鮎の苦みを泪の味と。いささか甘い抒情に見えるが、しかし芭蕉に「行春や鳥啼魚の目は泪」がある。当然それも踏まえての句で、奥が深い。「ほろ苦い」と言っているのだから、本来「口中に」は不要なのだが、この句では、それが「鮎の泪」と響き合って実感を増加させ、激流を生き抜いた鮎を食すほろ苦さをよく伝えている。

うたかたの簾夜風は無伴奏       菊地 京子
 無伴奏は孤高。孤独とは違う。もともと伴奏を要しないギターやピアノの演奏に無伴奏という言葉は使わない。通常は伴奏の付く楽器や声楽が単独で演奏するからこその無伴奏。そこには通常とは違う、さらなる高みを目指す精神がある。風まかせの簾を、作者は「うたかた」と。たしかにそれは消耗品に違いない。その簾を奏するのは風。昼ならば人間という伴奏者がまとわりつくだろうが、今は夜。人気のない部屋で、孤高の演奏は続く。

古利根を深く流れて達谷忌        山口  明
 達谷忌は楸邨忌の別名で七月三日。「古利根の」が通例であろうが、「を」とすればその主語は楸邨と作者自身の自我で、そこには「の」に収まりきらない楸邨への思いや自我の強さがある。それを押さえて「の」と詠みきるのが俳句の常道であろうが、そうすると今度は「流れて」の常套性が気になってくる。やはりこの句は「古利根を」である。

手押しポンプキーと吐き出す深みどり   田村 隆雄
 久しぶりで生活臭のあるオノマトペに出会った。「キー」がすべての句。「深みどり」は周囲の茂りが水に映っていると読めば季語だが、久しく使われなかった汚水であれば無季。それは読む人次第である。

こだわりの濃いも淡いもミニトマト    上野かづ子
「濃いも淡いも」は色と心の掛詞。言葉遊びと言えばそれまでだが、もともと俳句とはそのようなもの。言葉に多重の意味があることへの驚きが俳諧を生んだのである。古句の駄洒落には、二重の意味を持つ言葉の神秘性への畏敬がある。

食パンを朝の鞄にかたつむり      赤羽根めぐみ
俳句の比喩は、いつも喩えるものと喩えられるものが逆転する位置にある。満足の行く弁当を作れずに食パンを鞄に放り込んだ作者は、夜遅くまで仕事をしていたに違いない。そんな自分を眼前の「かたつむり」に重ねた句と読めるが、しかしゆっくりと己を殻にしまい込むかたつむりの姿が「食パンを朝の鞄に」だった可能性もないわけではない。

耳裏痒し梅雨晴のオママゴト       松澤 伸佳
さて何があったのか。とりあえずは眼前に子どもの遊びがあって、それを見た作者が自分の子どもの頃の何かを思い出してむず痒くなっていると読んでおこう。しかし、「オママゴト」とカタカナで書かれると、せっかくの梅雨晴れなのに、なぜそんなレベルのことしかできないのかという、いささか斜めになった視線を感じてしまう。たしかに今の世界はオママゴトだらけだ。

拝啓のあとの頬杖金魚の死        杉浦 悦子
 理由はよく分からないのだが、「軸」らしい句だなあと懐かしくなった。こういう句を読んで私は育った気がする。説明しないで大きな文学空間を作り出している。

向日葵のみんな他人で咲き通す      和田 三枝
 もたれ合わない向日葵の咲きように敬意を表した句。「みんな他人」という突き放した世界観が小気味よい。

平成27年8月

生きること自体の美学卯波来る      小島 裕子
 卒寿の作者にこのようなことを言われたら、私たちは何と答えれば良いのだろう。作者は、鈴木真砂女をはじめとして、生きることの美学を貫いた数々の先人を念頭に置き、そこに自分を重ねて、その生き方をつきつめようとしている。美学とは、自分のつきつめた思いのとおりに生きることに他ならない。
 言葉だけではないのだ。この作者は、九十歳を超えた今も、月に五回の句会に出席し、この夏も、新しい仲間をまた二人軸に引き入れてくれた。書道の手も休めることはなく、今は、写経と俳句を中心にますます生き生きと墨痕を輝かせている。頼まれれば、今も賞状の文字を書くのだ。
 それらはみな健全な身体がなければ為し得ないことだが、その健全な身体を支えているものこそが、その〈美学〉なのである。
 自分でこのように生きようと決めること、より美しい人生を、自分自身で作り上げようとすること。それが美学である。生き方への強いこだわりがなければ、私たちは、ただ生きてしまう。ただ生きてしまうことは恐ろしい。それがいやだから、私たちは俳句を詠む。
 どうせ生きるのなら、どうせ俳句を詠むのなら、徹底して自分の美学にこだわっていこう。作者はそう言っている。

草取の草に沈んでいる会話        岡野 高士
 いくら取っても終わらない草取りの仕事。炎暑の中で、会話もなかなかはずまない。それだけの句だが、「沈んでいる」が効いていて、生活者の実感がしみじみと伝わってくる。「現実に立脚し、生活者としての実感をうたいあげる」は「軸の主張」の一つだが、最近は生活の変化に伴って、生活実感の強い句が少なくなってしまった。スイッチを押すだけで一日が終わるような生活だから仕方がないのだが、その中でも、生活の手応えのある言葉と内容を探していきたいものだ。この作者の句には、いつも生活者の手応えがある。これからも、その実感を大切にしていっていただきたい。

照準の柳絮へ河という蛇行        山﨑 政江
 柳絮がまっすぐ飛んでいく方向に、河も蛇行しながら進んでいくということ。柳絮に照準を定めているのは「河」ということになるが、実は作者自身でもある。「河という蛇行」をしているのももちろん「河」だが、これも作者自身でもある。俳句の隠喩では、喩えるものと喩えられるものの関係が逆転する。その重曹性が面白いのである。初心者は、作者が「照準を合わせる」などという動詞表現を省略していることに気づいてほしい。

仙人掌の花の甘噛み白昼夢       赤羽根めぐみ
「花の甘噛み」に新鮮な実感がある。

無防備を赦す椅子なりかたつむり     平林 啓子
 そうとうゆるい格好で座っていたのであろう。

逃げてばかり居れば失う父の日よ     和井田なを
 女性からのきつい一言。

一日に三度のケーキ蠅叩         稲垣 恵子 
 大きいのを貰ったのだろう。「蠅叩」が抜群。

幻影は木魂のあつい水齢忌        菊地 京子
 「水齢忌」は河合凱夫の忌日。七月二十九日。

口笛はいつも遠景姫早百合        笈沼 早苗
 だれかの口笛を思い出しているようだ。

風立ちぬ麦の黑穂のいくさうた      戸部  修
 この時期になると思い出すこと。

ジョギングの肩で押し上ぐ雲の峰     岡田 治子
 生活実感を基盤にしたレトリック。学び取りたい。

まだ半分あり六月の残り水       松本千賀子
 今はペットボトルだろうがうまく風情を生み出した。

父の日の花に水たし非力なり       首藤こころ
 下五は万感の思い。

 平成27年7月

角砂糖めきし石段朝ぐもり       赤羽根めぐみ
 「めく」は接尾語。名詞などに付いて、何かに似ている感じがするという意味の動詞を作る。一般に直喩表現とされるが、直喩と隠喩の違いは、比較する両者を、違うものと意識しているかどうか。作者は、角砂糖と石段を別のものと意識したうえで、似ていると表明している。俳句で直喩を使うときは、常識では似ていないものの類似を発見しなければならない。ネットで探したら、「川の字に寝て乾電池めく霜夜 守屋明俊」というのがあった。これもすごい。「角砂糖」や「乾電池」という言葉が持つイメージの豊かさを生かすことが重要だ。
 問題は「し」。回想の助動詞「き」の連体形であるから、通常は過去の出来事を表す。とすれば、過去に角砂糖めいていた石段を、今見ているということになる。あるいは、その石段自体が回想のイメージなのか。
 単純な学校文法(規範文法)では誤用とされそうな事例だが、しかし日本語のネイティブである私の心にすっきり入ってくるこの感じは何だろう。科学的な文法で読めば、この句もひとつの用例であるから、簡単に誤用と切り捨てることはできなくなる。
 おそらく、「朝ぐもり」という季語の、どんよりとしてうっとうしい感じが、この時間軸のあいまいな展開にリアリティを与えているに違いない。過去も現在もないような、徹夜明けの朝。脳が甘いものを必要としていたのであろう。

蟻一つ荒野の翳となりにゆく       山﨑 政江
 小さな蟻が、大きな荒野に翳を作る。それだけでおもしろい。そこに人間の生き様を読むのは自由だが、やり過ぎると、この句を月並の教訓句にしてしまうから注意しなければならない。「なりにゆく」が軸らしい表現と言えるだろう。

人間も獣も立夏石舞台         木之下みゆき
 どうやら「鳥獣戯画」を見に行った連作のようである。「人間も」は見ている自分たち。たしかに東京国立博物館は「石舞台」である。季語の「立夏」は、あまりにピンポイントで驚くが、実際に見に行った日が五月六日だったのであろう。絵巻中の獣の多くが立ち上がっているから、そういう意味でもイメージが合う。

麦秋の肩の辺りに置くシネマ       表  ひろ
映画館の前列に座る人の肩である。「シネマ」という言い切りが洒落ているが、すでに山口明さんの句にもあり、あまり流行らないようにしたい。「麦秋」は映画館の外の季語だが、スクリーンも麦秋の景だったのだろう。「カルメン故郷に帰る」などという古い映画を思い出した。

ブランコに軽く揺られている回顧     岡田 治子
「軽く」が巧み。「軽く」ということで、逆にその回顧の重みを読者は感じ取ってしまう。

山梔子のうしろの昼に耳凝らす      沢木  京
 「うしろの昼」で一句となった。景を広げているのがポイント。この中七を「山梔子」に収束させる人が多い。

山藤の昂るときの埴輪馬         鈴木 郁子
「昂るときの」が「山藤」と「埴輪馬」のイメージの双方に掛かっていておもしろい。

新緑へ開けるチャイムを歌わせて     杉山真佐子
 ドアを開けるとチャイムが鳴るという日常の出来事に意味を見いだした句。「歌わせて」が作者独自の〈捉え〉。

花茨見て辿り着くシベリウス       山口  明
 「花茨」と北欧の作曲家のイメージが響き合う。

花は葉になりて自分になる所       小島 裕子
 葉桜の時期こそが、本来の自分だと言っている。

咳払いして支柱組むみどりの日      齋藤 和子
 日常の小さな行為に意味を見いだすことは重要である。

藤白し廊下は果てしなく暗い       飯塚 宣子
 陰影の対比の句だが、渡辺白泉の句なども思い出す。

原っぱが巨石の居場所夏兆す       関谷ひろ子
 巨石は人類文化の源流、石器時代を想わせる。

死は常態生はいとしき蜃気楼       木村 鉄郎
 年齢を積み重ねてこその認識。「いとしき」が切ない。

鎧戸を明ける決断五月来る       ひねのひかる
 事実としても、心の問題としても共感できる。

つばめ変幻敗北を語れるか        田村 隆雄
 語れるようになることが人としての前進。

足先で聴く筍のひとり言         三浦  侃
 ウイットに加えて、ペーソスもある。

母の日の渡りきれない交叉点       杉浦 悦子
 信号を引き返したという些細な出来事に深い意味が。

隈取りの下地哀しき白牡丹        小池美佐子
 歌舞伎の隈取りなら下地は練り粉。その一面の白を、牡丹の白と比較していると読んだ。

石仏にカーネーションある優しい日    松本千賀子
 小さな事実が心情と状況を伝えている。

丁寧な仕事がしたいかたつむり      松澤 伸佳
 繁忙な自身の思いをカタツムリに託した句。

子どもの日空に平和な凧揚がる      飯塚みち子
 「平和な」という観念語がこの句では効果的。

あと一口をもてあます走り梅雨      斉藤 くう
 介護ではなく自分だろう。季語が味わい深い。

万物を載せて自転の球に蟻        柴田 澄子
 地球の主人は、この一匹の蟻であろう。

平成27年6月

啓蟄の断片おのれ見失う         山﨑 政江
 春になって虫が出る。さあ人間も動き出さなければ、というのが啓蟄。しかしそこにまとまったテーマがないのである。煩瑣な生活の断片ばかりが押し寄せて来る。早く生きるテーマを見いださなければ。

交番に僧の来ている四月の雪       首藤こころ
 
どんなドラマを作り出すかは読者の自由。与えられた素材は実に興味深い。俳句のおもしろさとはこういうことだと教えてくれる句だ。

告天子翼に風の傷いくつ        木之下みゆき
 雲雀の傷を思うのは、自分にもそれがあるから。もっとも明るい存在が、一番傷ついてきたのかも。

物心付きはじめたる柿若葉        岡田 治子
 輝きを増した柿若葉を見て、少し世間が見えてきた頃かなと。むろんそういう存在が身近にいるのである。

花びらに雨の続きという岸辺       市川 唯子
 ああ、やっぱり降ってしまったか、と。「岸辺」は道の果て。しかし発想を変えれば、そこは別世界への出発点。

花冷えの雨短めの配線図         西﨑 久男
はて、これでは線が届かないだろうと、電工夫は設計図を見直す。花冷えの不可思議な空間。

べつべつの椿を載せて連結器       小池美佐子
 前の車両にも椿、後の車両にも椿。微妙な人間関係があるのかもしれぬ。

白鍵へ羽化する十指聖五月        表  ひろ
 生き生きと動き出すオルガニストの指。「聖五月」という季語を生かした句。

添える手の微かに潤む花の冷え      清野 敦史
 相手は老いた人であろうか。「潤む」が心を伝える。

三月の火炎をくぐり来し過去帳     ひねのひかる
 東京大空襲。そこを焼け残った過去帳である。

春の雨架空家族の長話          松澤 伸佳
 職場だろうか。架空家族は〈ままごと〉の大人版だろうが、新たな人間関係を構築できるかも。

目借り時いつもだれかに突き当る     安田 政子
 
目借り時だから朦朧と人に突き当たるというなら自虐の句だが、しかしいつも手がかりになる人と出会うという意味かも。

号泣の銀河につなぐ花轍         菊地 京子
 季語は造語の「花轍」。落花で溢れる轍、あるいは轍のように続く落花。その道が思い出の人たちの住む世界につながっていくというのである。

約束の時間下さい菜種梅雨        互井 節子
 あの時約束したはずの時間を下さいと。いや、せめて約束するだけの時間を下さいということか。いずれにしても時間が足りないのである。

永遠は掌に乗れるだろうかリラの庭    加倉井允子
 人間は永遠を認識することは出来ない。もちろん掌に載せることも。それができるのはたとえば仏陀。だが、永遠の掌に乗ることならできるかもしれぬ。

死者の胸解いて吐き出す花の昼      山﨑 文子
 死者の思いを代弁しようとするのだが、結局それは自分の思いの吐露なのである。

夢は火になり三月の誕生日        小島 裕子
 空襲の記憶、愛の記憶、火はすべての思い出を象徴するかのように夢を包み込む。目覚めれば九十歳。

英霊の島ある限り桜貝          柳本 ゆみ
 
甘くなりがちな桜貝という季語に深さをもたらした。

板につくシェフのネクタイ風光る     関谷ひろ子
 身近な若い人がシェフと呼ばれるようになったのだろう。「板」と「シェフ」が微妙に響き合っていて可笑しい。

師に黙すごとくに対す仏生会       田中 米子
 「師に黙す」は単純な尊敬ではなかろう。

連翹や逝きし瞼が開きたがる       君塚 敦二
 美しいこの世への思いがまだあるのか。死者はなかなかまぶたを閉じようとしない。

平成27年5月

口笛に牧神も来よ春の丘         表  ひろ
 牧神パンは音楽の神。平明な明るさの中に精神性が漂う秀句である。

竹林の風の弾力亀鳴かす        木之下みゆき
 「弾力」から「亀鳴かす」への展開が実におもしろい。「竹林の風の弾力」はありそうな表現だが初見。

エンピツと楽しむ時間山笑う       小島 裕子
 春となれば吟行。筆記用具を持って九十歳もさあ外へ。

おぼろ夜の幕間に光るサキソフォン    山﨑 政江
 幕間に次の準備をするバンド。照明の落とされた薄暗い舞台下の一瞬のきらめきを作者は見逃さない。

一宿一飯淡ゆきのシャンソン      菊地 京子
 泊めてくれる人がいた。素晴らしいことだ。しかし、その関係はいっときの儚い歌。

猫柳鏡の国の子と話す        赤羽根めぐみ
 揺れる猫柳は、確かに誰かと話しているように見える。鏡の国と言えばアリス。入り込んだ世界は、アリスの夢か、それとも赤の王の夢か。荘子のような話である。

春を刷る音の群像副都心        小林 俊子
 都会の幻想。副都心にも春は着実に訪れるということ。

吽像の厚きてのひら冴え返る      福田 柾子
「厚き」という写生一つで成り立っている句。「吽像」だけに絞り込んだのもよかった。

空の木が川を冒して鳥帰る       西﨑 久男
 川に空と木が映っているというだけのことだが「冒して」という認識で、突如、世界状況の象徴的表現に。

鏡面に風の行き交う古代雛       鈴木 郁子
 鏡の景が風で揺らいでいたのであろうが、それが古代からの風にも思えて、鏡がタイムトンネルの入り口のように感じられる。

縁遅日人形足を放り出し        倉岡 けい
縁側に人形が横たわっているというだけのことだが、語順で句になった。「縁」は深読みもできる。

空はうつぶせ紙風船が舞って出る    荒木 洋子
 球形の空を「うつぶせ」ととらえたのがおもしろい。こういう個性的な把握が俳句の肝である。

十指みな使って開く春きゃべつ     豊田 いと
 特に動きを描写しているわけではないのだが、指の動きまで見えてくる。こういう写生もある。

ひとひらの不安な着地新入生      野口 京子
 花とも桜と言わずに分からせて見事。「不安な」は俳句では言い過ぎと言われそうだが、「不安な着地」は、現代詩の表現として優れている。

白加賀の何を摑んで眠りいる      山﨑 文子
 「白加賀」は梅。開ききっていない花を詠んだと思われる。白加賀の実は梅酒によく使われるが、梅干にしても南高梅とは違ったおいしさがある。

甘噛みの腕に別れの冴え返る      山本 敦子
 愛犬の死を悼んだ句である。

靴底の左右の違い弥生尽        和田 三枝
 減り方の違いを言った句。「弥生尽」は推移の感覚。

地下鉄道初蝶の死をポケットに     市川 唯子
 地下鉄を「地下鉄道」とちゃんと言ったのが逆におもしろい。伝わりやすい句である。

蛤の呟き夜の耳焦がす         大平 充子
 砂抜きをしていた蛤が泡を吹いたので、作者はそこに何か感じるものがあったのだろうと読んでいたら、この蛤は網で焼かれていると読んだ人がいて仰天した。人それぞれである。

雲流る夢の数だけ種を蒔く       下村アサ子
 ロマンに流れた句に見えるが、「夢」を咲く花のことと読めば具体性はある。「雲流る」という微妙な時間感覚がこの句を成功に導いている。

ありのまま法話だんだん梅真白     上杉 良身
 「段々」ならきれい事ではない法話が続き、梅の白さが少しずつ増していくという感覚。「団々」なら飾らない法話に心を丸くなっていく感覚。それらすべてを含んでの句。

平成27年4月

花菜雨砂の日常ぬりかえる        諸藤留美子
 「日常」という抽象語で風情を生み出している。「ぬりかえる」はやや散文的だが分かりやすい。抽象語を、理性ではなく、読者の感性につなげていこうとする努力が見える。現代の言葉で風情をどう組み立てていくのか。我々のこれからの課題である。

ひかりにも水にも敏く如月よ       倉岡 けい
 「敏く」の主語は、作者自身とも読めるが、「如月」なのであろう。「如月」は旧暦二月で、今年は三月二十日から四月十八日まで。自然がもっとも鋭敏になる季節だと作者は感じ取ったのである。

影さえも雨後の煌めき西行忌       市川 唯子
 「西行忌」自体を読んだ句ではなく、今年のその日の雨上がりの様子を読んだ句であろう。しかし、それでもそこに西行の影はよぎる。『山家集』に「かかる世に影も変はらず澄む月を見る我が身さへ恨めしきかな」とあって、これは月影だが、作者は西行の影を見たか。

春暁の行き渡るまで黙秘せり       岡田 治子
 黙秘したと言うからには相手がいたと思われるが、そんな早朝に何事であろうか。若い作者の句ならまた別の意味にもなろうが、年齢を重ねた人の作であってみれば、孤高の内面が思われるのである。

戦知らぬ銀翼ひかる芽木の風       村上千代美
 「戦知らぬ銀翼」は説得力のある表現である。七十年もの平和を享受できたというのは、近代人としては希有の体験。「ひかる」はいささか散文的だが、そう表現したい作者の気持ちも理解できる。

春飛雪何もて計る人の幸         表  ひろ
 春の吹雪という二面性を持つ季語が作者の疑問を深めている。季語が動きそうな句形だが、安易な付け方をしていないので何とかなった。

きさらぎの尾鰭背鰭は短かめに      山﨑 政江
春になって活発に動き出した魚を見てそう感じたのである。裏に話に尾鰭を付けるという慣用句が隠れている。

目頭のつんと酸っぱい冬銀河       沢木  京
 「つんと」は刺激臭の形容だが、「目頭がつんと熱くなる」と使う人もいる。それらの表現の間隙を縫って、作者は「目頭のつんと酸っぱい」という新しい表現を作り出した。実感があってよく分かる。佳句と思うが「冬銀河」で少し軽くなったか。分かりすぎるのである。

明烏名のみの春を頒ちあう        栗山 和子

夜明けのカラスが、まだ肌寒い春を分かち合っているというのである。「明烏」には落語もあり、蕪村の句集もあるから意味がいくらでも広がる。

石がま漁核心衝いてまた突いて      松澤 伸佳
〈核心を衝く〉という抽象的な慣用句を、具象世界の具象の写生にもってきた。

男ふたりの肩を抱き        堺  房男
 何ということもない光景の描写だが、「白梅や」がさまざまなドラマを作り出す。

心で話す風の電話や春兆す        水谷 田鶴
 風音と語り合っていたか、それとも実際の電話の声が風のようであったか。いずれにしても饒舌ではなく、とつとつと語ってきたのである。詩情豊か。

春雨の糸の操る海ほたる         荒木 洋子
 この「海ほたる」は東京湾の人工島。しかし動物でも読める。眼目は「糸の操る」。

声殺し合う遅咲きの福寿草        鯉沼 幸子
 密生し、互いに牽制し合っているように見えたのであろう。「声殺し合う」は不気味だ。

落ち所なく東京のぼたん雪        森   收
 風に舞う雪を詠んでいるのだが、「東京の」で納得させている。

出所を語ることなし隙間風        髙﨑 正志
 隙間風のことであったとしても、またそういう人がいたという話であったとしても、なかなかの俳味がある。

平成27年3月

罪深き大樹寡黙に雪を着る        栗山 和子
 大樹がそこに育ったのは大樹の責任ではない。おそらくは人に植えられたのである。だがそこは、いささか建物に近すぎた。太りすぎた大樹は、神仏の領域を侵してしまったようである。しかし大樹は言い訳もせず、その状況を受け入れ、ただ黙って雪を乗せて佇んでいる。それを見た作者は、そのように生きれば良いのだ、そのように生きるしかないのだ、と思い知ったのである、

人恋うは冬の夜霧か擦れ違う       山﨑 政江
 もの影と擦れ違ったのである。今のは人であったのか、それとも夜霧の影か。まるで人を求めるように流れていったのだが・・・。作者が見たものは、己自身の心であったかも知れない。人に、まだ見ぬ人を恋うて生きている部分がきっとある。

葉牡丹の衣擦れ夜がもう一つ       市川 唯子
 しゃがみこむと、葉牡丹が風に吹かれて、微かな音を発していた。こんなものでも音を出すのだ、という驚きが、ついさっきまでの俗世界とはまったく違う夜を作者にもたらしたのである。

脈をうつ寒夕焼を渡らんと       赤羽根めぐみ
 自分を詠んだ句とも、他者を詠んだ句とも。いずれにしても、これからの時間への前向きなエネルギーを詠っている。他者ならば鳥を思うのが自然だろうが、対象と作者とが一体化していることを感じ取りたい。

冬木の芽大振りの靴足枷に       杉山真佐子
 春になったのであるから、自然とともに自分も開放的になって、もっと歩き回りたいのである。しかし、それを妨げる何かが作者にはある。「大振りの靴」をそのまま読めば滑稽句だが、そこに何らかの風諭があるように思う。それをあからさまに言っていないのがよい。

荒星の降るふる七人の侍に       荒木 洋子

 映画の場面そのままだが、「七人の侍」には、読者それぞれが思い当たる誰かを当てはめて読めばよい仕組みになっている。「荒星」は、荒涼とした冬の空に荒々しい光を発する星のことで、冬の季語。北野武の新作『龍三と七人の子分たち』も面白そうである。

水仙花こころの折れる文学論      柳本 ゆみ
どなたかが、とうとうと文学論をぶったのである。言っていることは正しいのだが、意欲の湧く話ではない、ということ。犯人は私だろうか。

抱っこの絵本白鳥は好敵手       諸藤留美子
 湖畔に座って、抱いた子に絵本を読んでやっているのだが、その湖に白鳥がいて、どうやら子どもはそっちが気に入っている様子。

千代の春古式の笑みを繰り返す      表  ひろ
 正月に礼者を迎えればたしかにそうなる。言い方のおもしろさ。自分をみつめつづける眼がないと、こういう句は生まれない。

忘却の糸に冬蝶もう泣くな        菊地 京子
 実景としては、蜘蛛のいない蜘蛛の巣に掛かった冬蝶。しかし「忘却の糸」は作者の心象でもある。

薬効の裏側冬芽眠くなる         倉持 紀子
 「薬効の裏側」とは言い得て妙。副作用などと言ってしまっては身も蓋もない。目の前の冬芽がぼんやりしてきてしまう様子がよく見える。

記憶を束に雪の故郷の神の鈴       小島 裕子
 雪国生まれの人が、故郷を語り出したのである。次から次へと記憶は繰り出されてゆく。話が神鈴に及んだとき、聞き手にも思い当たることがあって、記憶が束になって蘇ったのである。

自由へと十指をひらく冬木の芽     和田 三枝
冬木の芽が掌の指のように広がっていたのである。それを見た作者は、それらがみな自由というものに向って行くように思えたのである。

平成27年2月

冬枯のどっちへ鳴こうマングース   木之下みゆき
 うろうろ、きょろきょろしているマングースの姿が見えてきておかしい。「鳴こう」が効いている。「冬枯」は冬になって枯れた状態になったことで、春になればまた芽吹くことを前提とした季語である。テーマを持った五句で構成されており、最後に作者自身が「迷想の獣」として登場してくるので、その前の四句の獣の姿が、みな作者に重なって見えてくる。

枯れてゆく村に水車のひとり言     小島 裕子
「枯れてゆく村」とは何であろうか。冬になったというだけの話ではなさそうである。高齢化、過疎化、離農、放置田、放置畑・・・さまざまな言葉が連想される。「水車」は長くこの村の生活を支えてきた存在。華やいだ時代を知っている水車のつぶやきが、作者の心象と重なったのである。

葉牡丹の奥へ火を焚く男声       山﨑 政江
「火を焚く男声」は、その人への信頼であろう。平明な庭の景であるが、日本の家庭の原象が見える。整えられた音調にも留意したい。

霜柱瞑想の端をそっと突く       市川 唯子
 瞑想しているのは霜柱。それを作者が突いたのである。霜柱が瞑想していると見立てた句である。

凍空へ骨張っている水平線       表  ひろ
「骨張る」を『広辞苑』で引くと「①皮膚の下で骨がいかにもごつごつ角ばっている」「②意地をはる。がんばる」とある。なるほど寒さの中で、水平線も少し無理をしていたのだと思った。

夢になり現にもなり霜の声       岡田 治子
 「霜の声」はもともとが幻聴のようなものだが、それが「現」になるというのは少々怖ろしい。何かが迫ってくる不安感を感じる。

宇宙膨張空港に居て風邪ひくな     山﨑 文子
 海外に出向く家族がいたのであろう。その感覚を「宇宙膨張」と。「膨張」が寒気を生んでいるような気配がおもしろい。

星の息愛かと七色唐辛子        鈴木 郁子
 少々難解だが、口中に七味唐辛子の粒があって、自分のその熱い息を「星の息」と感じたのではないかと思う。昔、七味唐辛子が季語になるのかという論争があったような気がするが、無季なら無季でもよいだろう。

孤愁なる冬のぶらんこ過密都市     安田 政子
 都市の公園はどこかさびしい。特にそれが冬となるといっそうのわびしさがある。「冬のぶらんこ」はむろん人の精神状態のメタファーである。

めうがやの足袋で源氏を攻めにゆく   菊地 京子
「めうがや」は浅草と向島にある足袋屋。慶応三年から続くという。総本店は日本橋だったらしい。「源氏を責めに」は観劇であろうか、現実であろうか。

冬の虹心もとなき水尾つれて      荒木 洋子
 「水脈」を連れているのは「虹」ではなく作者。遠くの希望へ舟で向かっていくというのである。魯迅の名作「故郷」を俳句にしたような作品である。

村の灯を集めて青いクリスマス     西﨑 久男
 村の一か所だけが、クリスマスのイルミネーションで輝いていたのである。「青いクリスマス」が、実際の景を言っているだけなのに、精神性まで響かせている。

年用意気配を消せば幸せに       松澤 伸佳
 〈煤逃げ〉と同じ趣旨の句であろう。たしかに自分を出し過ぎないことが幸せの要件に違いない。

笛の音の残像となる暖房車       倉持 紀子
 聴覚の残像というのは少々無理をした表現だが、「笛の音の残像」と言われると納得できる。暖房車とあるので、昔の蒸気機関車の汽笛を思い出した。

飽食の睫毛くず湯をふいており     大平 充子
 この場合の「くず湯」は、むしろ粗食の象徴であろう。あらゆる食べ物を渉猟してきた人がたどり着いたのが「くず湯」というのは面白い。「睫毛」が効いている。

猛禽の目玉とび出す神の留守      倉岡 けい
 大きな鳥が目を剥いていたのである。それだけでも不気味なのに、それが「神の留守」と響き合って、迫力のある不思議な空間が作り出された。

けん玉のことんと赤い十二月      増渕 純代
 「ことんと」から「赤い」への展開が、実に俳句的だと思った。「赤い」が妙に「十二月」にぴったり合っていて、印象的な句となった。

大空へ気球一個の冬構え        鯉沼 幸子
 その街の冬構えは、大空に漂う気球一個のみだと作者はとらえている。実際は、街は冬構えを整えているはずで、だからこの気球は、街の冬構えの象徴なのである。

千里行く冬夕焼と待ち合わせ      柳本 ゆみ
 飛行機に搭乗するときの句とも読めるが、私は想像の世界に旅立つ句と読んだ。「待ち合わせ」という表現が気が利いている。

パソコンをこの子と呼んで冬帽子    野村美代子
 そんなに若い人ではないように思うが、パソコンの達人なのであろう。使い込んだパソコンが、自分の分身のように思われていたのである。聞き逃しそうな人の言葉をよく言い留めた。

平成27年1月

 どのような俳句を作るにしても、共通して言えることは、〈省略が命〉と言うことである。蕉風だろうが写生句であろうが心象俳句であろうが、省略がなければ俳句とは言えない。自由律俳句や無季俳句も同じである。散文よりも言葉を省略してより多くのことを伝える、それが俳句である。
 言葉を五七五に押し込めれば俳句になるというものではない。省略の結果が五七五になってはじめて俳句なのである。まずは〈花が咲く〉〈雨が降る〉〈川が流れる〉などという言わずもがなの動詞を省くこと。
 さらに、「や」「に」「へ」「は」「を」などの助詞を置けば、次の言葉が要らなくなるということに気付いて頂きたい。
 また最近は、大景の句、遠景の句が多いのが気になる。近景の句にもう少し挑戦をしてみたらどうだろうか。
 時間的な遠景というのもある。思い出の句である。遠くから茫洋と気分を詠むという俳句も悪くはないが、すべてそれでは困る。対象に近づいて、あるいは手許に引き寄せて、じっくりと句を練って頂きたいのである。

心して万物冬へなだれ込む       岡田 治子
 「心して」は何らかの決意を心に秘めているゆえの言葉であろうが、高齢のゆえでもあるのだろう。すべてが冬となる季節の推移の中で、慎重に、と思っている作者がいる。一方で、「心して万物冬へ」と続けて読めば、万物が注意深く季節を推移させているという意味にも取れ、かなり前向きな句意となる。慎重さと積極性が重なり合った句である。

光陰の零れ易さを革コート       山﨑 政江
 「零れ易」いのは過去の記憶と読む人が多いだろうが、現在という時間かもしれない。高齢化と情報化の進む中で、私たちは、かつてほどの生活実感を感じられない生活を送っている。そのことが、いつも何か忘れているような気分を作り出すのである。年代物の革コートと読んだが、新しいコートと読むおもしろさもある。いずれにせよ作者は、何かに身を包んでいないと不安なのである。

叱咤いま雨の疼きを着ぶくれる     市川 唯子
 昨今、直截な叱咤をしてくれる人も少なくなった。作者は、あれは激励のはず、叱責ではないと思いながらも、少し傷ついた心で雨の中を歩いている。そのときの微妙な心境を、〈寒い〉と〈温かい〉の二面性を持つ「着ぶくれる」という季語がうまく伝えている。「着ぶくれる」という季語の新しい使い方として評価したい。

レコードの溝にぬくみや小六月     平林 啓子
「ぬくみ」は、レコードから出てくる音のことを言いいたいのであろうが、小春日が窓から差し込んでいる暖かさも感じ取れるので実感がこもった。

冬行くはけものの出入口一つ      荒木 洋子
 この冬という厳しい状況を前に進んでいくからには、自分には「けものの出入口一つ」しかないのだと、作者は自分自身に言い聞かせている。生き物としての自覚を持って生きるということである。機械に頼って不便を嘆いたり、簡単に生きようとするなどは、「けもの」の採るべき態度ではない。

百年の記憶は湯婆のかたち       菊地 京子
作者もまだ百年は生きていない。しかし記憶というものは、親や祖父母から受け継いだ情報とつながっているものだ。誰しも百年の記憶くらいは持っているに違いない。私も幼いころ祖母から聞いた明治の光景が、まるで自分の記憶のように見えてくることがある。作者は、その記憶のすべての象徴として「湯婆」を置く。そうかもしれないと思う。

起き伏しに獣の臭い神の留守      安田 政子
 言いにくいことを巧く使った。自分のこととしてだけ詠んだら見苦しい句になるところを、「神の留守」と置いて、此の世の真実に広げ、深さも作り出した。

風を着て冬に遅れる妹よ        沢木  京
 「妹」は、作者より苦労して生きているようである。作者はそれを心配しているのであるが、しかしその生活力を他者に誇っているようでもある。

どんぐりの逃げ足早き工作台      新居ツヤ子
 卒寿となった作者の、この若々しさを学びたい。徳島支部も解散となり、今は作者と近藤和代さんのお二人が頑張って下さっている。

解散の夕日を浴びて冬の鵙       松澤 伸佳
 国会解散という時事をベースに、冬の鵙の生態に迫った句。「解散の夕日」という措辞が新しい。

算盤の世間知らずや小鳥来る      関谷ひろ子
 算盤の持ち主を言っているのであろうが、古い算盤自体への感想かも知れない。「小鳥来る」が少し不思議。

鉄板にころがる油酉の市        永妻 和子
 近景を生き生きと描いた句。こういう句をもう少し増やしたい。

ダブルスの息のきららに小鳥来る    山本 敦子
 屋外のダブルスであるからテニスと分かる。明るく若々しい。こういう雰囲気の句も増やしたい。

皇帝ダリア青空を従えて        富澤さち子
 先月、今月と皇帝ダリアの句が多かったが、この句がもっとも平明にその存在感をとらえたと思う。