軸の俳句

秋 尾  敏 評

<「碧耀集」という軸の雑詠欄の上位句を、秋尾主宰が評しています。>

平成26年4月

粉雪の明るさにあり指の棘        倉持 紀子

 冷たく降り積もる粉雪にも、見方を変えれば明るさというものがある。指先の棘のうずきが、その雪の明るさに少しずつ癒やされていく。
 数年前に作者はご子息を亡くされている。そのことを意識しての句ではないと思うのだが、その影がどこかに感じられて、思い出に少し癒やされている心情がせつせつと伝わってくるのである。

雪轍拒絶の骨をきしませる        山﨑 政江

 他者を拒絶しているのではない。自分の意志を身体が拒絶しているのである。雪の轍を注意深く一生懸命歩いているのだが、思う様に体が動かない。無理をすると骨が軋んだ感じがする。そのとき作者は、ああこれが今の私の状況だと認識したのである。
距離感はバレンタインの日のリボン    市川 唯子
 特別に付けてきたリボンに、まだ二人の間の距離が感じられる、そういう軽い恋句のように見せているが、実は同性への嫌悪であるかも知れない。あんなリボンなんか付けてきちゃって、ということである。

おいらくのいま白鳥の相聞歌       菊地 京子

古来、白鳥は穀物神であり、また黄泉に向かう魂でもあるが、作者にとっては相聞の相手であるらしい。「いま」に深い思いがあって、おいらくの今だからこそ、というのである。若い頃には見えなかったある美意識が働き始めているに違いないのである。

山笑う靴底の石とりだせば        諸藤留美子

靴底の溝に小石が挟まったのである。しばらくは我慢して歩いていたのだが、どうも違和感が大きい。人目をはばかってそれを取り出すと、とたんに春の気分になったというのである。ちょっとしたことだが、そのちょっとしたことで心は大きく動く。小さな心の変化を見逃さないことだ。大きな山と小さな石との響き合いもおもしろい。

髪染めて寒夜にそっと歳を取る      山﨑 文子

作者が髪を染めているのは若く見せるためで、そのことを認識する自意識が働いてしまったのである。「そっと」がそのときの気分をよく伝えている。淋しい句だが、ここまで自分を見つめられるのは救いである。俳句を詠まない人には難しいことかも知れない。

牡丹雪空に王国あるように        首藤こころ

 降りしきる牡丹雪が、普段の雪よりゴージャスに見えたのであろう。天にはこの豪華な雪を惜しげもなく降らせる王国がある、と作者は思ったのである。

名を呼ばるるも生き方が雪まみれ    赤羽根めぐみ

 せっかく名前を呼ばれたのに、あまりに雪が激しいので、さてどう返事をしようかと戸惑う。その一瞬の逡巡を自らとらえた句である。「生き方が」は大げさに見えるが、その瞬間の逡巡に、自分自身の本性を悟ったのである。

節分の一人二役戸がきしむ        江森 早苗

 まさか豆をまいてから鬼にもなる人はいないだろうから、たまたま節分の日に何か二役をこなさなければならない事情が出来たのだろうが、俳味がある。「戸がきしむ」も何だか慌てているようで可笑しい。

黄水仙メモの余白がしゃべり出す     丸山 蔦惠

 簡単なメモが残されていたのだが、ふとそこに書かれていない書き手の思惑に気づいたのである。

梅散らす鳥が会話の句読点        寺田 勝子

 庭の梅の木に飛んできてはまた何かに驚いたように飛び去り、またやってくる鳥たち。音がするたびに途切れる会話をうまく表現している。
飼犬のそっと家去る卒業期        髙﨑 正志
 飼い犬がいなくなった。自分の死期を悟ったかのような消え方であった。いや、実際に飼い犬が死んだことをそう表現したのかも知れない。いずれにしても「卒業期」という季語が抜群で、犬への情愛と尊敬を、俳味でくるんで伝えている。俳句はこうありたい。


平成26年3月

果てしない夢の荒野となる毛布      山﨑 政江

もっとも親しく身を包んでくれる毛布。毛布は常に自分の味方であったはずだ。ところが、その毛布が荒涼とした夢の舞台となってしまったのである。身を守ってくれる人がいないのではないかという不安感を、実に具象的に分かり易く表現している。
魂が手足を伸ばす湯気立てて      赤羽根めぐみ
 風呂上がりの景である。本来「湯気立て」は、乾燥した冬の室内に湿度をもたらすためにするのだが、それをちょっとひねって自分の体にもってきた。「魂」は、人によってはやりすぎと言うだろう。私は分かり易さを採った。

白鳥を青く燃やして明けはじむ      表  ひろ

幻想的だが、具象の景である。「青く燃やして」は技巧というより直感だろう。ただし熟慮の果ての結論という感じが伴う。そこが見えなくなるとなおよいと思う。

背に懐く夜の確かさどんどの火      市川 唯子

言いたいことが大きすぎて言葉になりきっていないのだが、何とか伝わる。俳句的にもなっている。ただ、もう一言足さないと解釈が拡散してしまう。背の寒さを言いたいようでもあり、背後に男性がいたようでもある。作者を取り巻く状況のすべてが「夜」だったのだろうが、絞りたい。

白鳥の無限のしろを抱くつもり      菊地 京子

 作者にとって「白鳥」は、美の理想であるとともに現実なのである。「無限の白」は可能性であると同時に、究極の到達点でもある。美意識として生きていくしかないと読んでもいいだろう。

ああ無情大根縮みゆくさまも       稲垣 恵子

六十代は若いと言われてしまう。しかし、若さをもっとも引き?がされる年代が五十代、六十代なのである。今までと同じことはできない。けれど、老人として生きる決心もできていない。その過渡期をどう生きるかを、最後の「も」が切実に訴えてくる。

隙間風誰かが哭いた家に棲む       曽根原和代

 思えば家屋には、そこに住んだ人の歴史がある。作者は、風音にそれを感じ取ったのである。

一灯に縋る海鳴り雪女          倉岡 けい

 灯火に縋っているのは海鳴り。作者に海鳴りの響きがまとわりついているのである。その状況を作者は雪女と。


平成26年2月

極月の一羽を仰ぎ見る無限         市川 唯子

一年を振り返り、次の一年を思う十二月であればこその「無限」。ふと飛び行く鳥影を仰いだときに湧き起こった感慨である。「一羽」を置いて、象徴性の高い句となった。

菊焚いてやさしき誤解遠汽笛        栗山 和子

 誰かが亡くなったいう誤解だったのだろうか。「遠汽笛」に命の鼓動が感じられる。「菊焚く」は「枯菊」の傍題で、その香りに昔を懐かしむ意味合いがある。もともとは「枯菊を焚く」と言っていたのだと思うが、いつの間にか「菊焚く」だけで冬の季語となった。

雪来るか妣庇いたる昼夜帯         菊地 京子

 極寒の明日の衣装を選んでいると、母の形見の昼夜帯が出てきた。ああ、この帯が母を守ったこともあったと昔日を懐かしんだのである。「雪来るか」には、何かの予兆を感じ取っている気分もある。「昼夜帯」は異種の生地を縫い合わせた女帯。江戸中期に流行った腹合わせ帯が原型で、黒繻子織に白博多を縫い合わせたものだったという。今は染め生地を縫い合わせたものがほとんどである。

病む者の空の渚へ冬木の芽        木之下みゆき

 その人は心を病んでいるのだろうか。「空の渚」は雲の景と思うが、そこには繰り返し訪れる波があるはずで、それがその日との気分を暗示している。「冬木の芽」は、作者が病む人に差し出す慰藉であろう。

見せる角度冷える角度に鉄の馬       荒木 洋子

 寒々とした空間に、馬が美しい姿勢で屹立している。その馬の自意識が感じ取れる。「冷える角度」が俳句観の分岐点。これを言葉に流れすぎると見るか、俳句的だと感じるかが俳句観である。「鉄の馬」は彫塑であろうが、本物の馬の比喩としても読める。

冬薔薇切って一つの別れかな         倉岡 けい

変哲のない句に見えるが力がある。薔薇を切ったことを「別れ」だと断定しているからである。「俳句は断定」とは凱夫前主宰の口癖。

盗みたき人あり山の眠る間に        香取 哲郎

相手は女性なのであろうが、いやらしさがないのは、その相手に人間としての畏敬が感じられるからである。「山の眠る間に」に、何とも不思議な自然との一体感がある。

彗星の決断を知る暖房裡          平林 啓子

 彗星の消滅を「決断」ととらえたところに力が生まれた。「暖房裡」は正直だが、そのために彗星との対比が明確になっている。

涙目で鳥は飛ぶのか風花す         和井田なを

 自分が涙目だったのである。寒さのせいばかりではあるまい。話を鳥に転じたセンスが光る。

燃え上がる満天の星冬来たり        斎藤 澄子

「燃え上がる」は実は比喩でなく事実である。その事実が、逆に人間の熱情の比喩になっている。高村光太郎の「冬が来た」のような強さがある。

枯葦の暮色に重き波頭           小林 俊子

 植物を波にたとえる句は多いが、「暮色に重き波頭」は心情も暗示していて優れた表現だと思う。

石垣は発火の匂い冬すみれ         首藤こころ

 冬の日だまりの石垣が実際にそういう匂いを発しているというリアリティがある。「冬すみれ」という季語の斡旋がいいのである。

信仰も気泡も闇のクリスマス        江森 早苗

「気泡」は、ビールかシャンパンのそれであろう。聖に対する俗を「気泡」で象徴させたところがおもしろい。


平成26年1月

箱詰のこだまの届く冬はじめ      表  ひろ

何かが響いたのである。まだ箱は開けていないのだろう。送り主の名が、作者の心に深い記憶を呼び覚ます。

海原は小春の鳥のモンタージュ     市川 唯子

 「モンタージュ」はもともとは「組み立て」という意味だが、犯人の似顔写真として有名になった。映画では畳みかけるようにさまざまなシーンをつなげ、新たな意味を生み出す手法をいうが、これが、説明しないで言葉を並べる俳句の手法に似ていると言われる。掲句は、たくさんの小鳥が組み合わさって景を作り出しているということだが、読み手の心象に現代的な像を生み出させる言い方である。

立冬やカレーの匂う介護服       田中 米子

介護服というのは、介護を専門にしている人用の制服で、商品として売られている。「カレーの匂う」に実感があって、懸命に働く人の姿が見えてくるのがよい。また「立冬や」が、労働の厳しさとともに、働く人の姿勢の良さも見せていて、心地よい斡旋となった。

おばしまへ秋立ち止まる流離かな    山﨑 政江

 「おばしま」は手(て)摺(すり)や欄(らん)干(かん)。「流(りゆう)離(り)」という言葉から、古くて立派な木の橋の欄干を思った。作者自身が古典の主人公になったような作。橋を渡っていて、手を欄干に、ふと立ち止まったときの感慨が「流離」だったのである。
暴れ気の残る流木初木枯        倉岡 けい

 いなせな気配の流木があったのである。「初木枯」が、これからの一波乱を予感させる。

丹頂が江戸へ囁くかすかな息      荒木 洋子

橋本雅邦展での作と思われる。雅邦の鶴の画を詠んだ句としてなかなかうまくできていると思う。

飛行船不意に戦く残り柿        岡田 治子

「飛行船」は一面で戦争や戦後を思い起こさせる。あの時代を思い出したということである。

さざんかの廃墟漢のピアノソロ     菊地 京子

 廃墟といいたくなるような姿で山茶花が咲き残っていたのであろう。そこにピアノの音が響いてくる。「戦場のピアニスト」という映画を思い起こした。

龍田姫あまねく雲を金泥に      木之下みゆき

 「龍田姫」などという古風な季語を、現代俳句で使い切って見事。見事に国立博物館の特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」からの連想があるかと思う。

風を着てあまたの柿にある狂気     栗山 和子

 あまりに赤かったのである。「狂気」とまで言うかとも思ったが、そう思わせる何かが柿にあり、そう思う何かが作者にあったのである。

至るまで泣いて笑って柿を剥く     和田 三枝

 当然「死に至る」ということがあるだろうが、それも含め、あらゆる段階に「至るまで」、「泣いて笑って」人間らしく生きていこうという決意である。